新人という存在

哲学者芦田宏直の著作「努力する人間になってはいけない」に書かれている新人論です。

昨日のブログにも書きましたが、アウトラインを整理する仕組みはこの新人が処女作を生み出すまでの流れをサポートする為の物です。この新人を如何に見つけ出すかが鍵だと思うのですがこの後に、このようにも書いています。

実はこの文章は同じ269pで順番が逆になっています。ここで言いたいのは、新人が処女作を生み出す瞬間に誰かの声を聞いてしまってはそれは既に処女作でも新人でもないという事が書いています。まさに、私は正しいのだと思います。すなわちプロデュースされるということは誰かの意思を尊重して出てくる子分であり、何も無い所から生み出されるみずみずしさこそが新人=作品であるとも書かれています。これはあくまで新人論でしかないので、作家論とはまた違います。

クリエイトされる瞬間、それは宇宙開闢にも匹敵するPowerがそこにはあるのだと思います。それをどうやってより良く生み出されるのか、という事について考えているという事です。もちろん、先人達は努力しまっさらな原稿用紙、まっさらな紙、またはナプキンやチラシの裏かもしれませんがアイディアだったり作品だったりを産み出せる人は産み出してきました。そういった一部の天才がクリエイター(創造主)として、存在することは何ら否定されるべき事でもないですし、称賛されるべきことです。ただ、挫折していった人たち、もしくはもうちょっとだけきっかけを与えればその反時代性を突破出来る可能性があるならば、突破すべきだと考えています。

芦田先生はコンピュータやインターネットにも深い理解を示されており、そこにも言及されている訳ですが、基本私のやりたい事はこの芦田理論をシステム化することにあります。ただ、そこには相当な矛盾が存在し、このままだとデータベース論に近づいてしまい機能主義者と叱咤されるかもしれないという恐怖もあります。機能主義とはファンクショナリズムの日本語訳ですが、結局コンピュータはインプットとアウトプットのみを制御するしかないため、その間にある因果だったり過程だったりがどうしてもおざなりになる。もしかすると他の要素があるかもしれない。もちろん、これについては最近はビッグデータみたいな考え方で大量のデータを使う事でより細かくとることで可視化を明確にしましょうという動きもありますが、本質的に2進数でしか処理出来ていないのですから、現在のコンピュータでは良い所まで行って終わりかもしれない。(誤解を招くので繰り返しますが、あくまで”かもしれない”、です)

(ただし、先生は相当なIBM LotusNotesの使い手なので、カード型データベースで日記を書いていた訳で、実は矛盾しているし、芦田の毎日もブログというかたちのデータベースに格納している。ただ、問題としているのはデータの質と収集過程で、そのデータ自体の意味を持たせられていないでしょうという、セマンテックな話である。)

結局の所データベース論というのは記憶の固まりなので、忘れない為の後悔をしない為の産物で、検索という存在も結局はその膨大なデータの海から抽出する為の物ですという話であってという議論になります。ただここに検索(Googleアルゴリズムは無視して)のすごい所は、無作為性とか無評価性にあり、フラットな所にあるという事です。Google検索は重み付けが平準化されているのですが、まだ、その人が”あれ”とか”それ”と言った時に今このタイミングの”あれ”とか”それ”は引っ張って来れない訳です。これがデータベースと検索が対となってしまう機能主義の極地と言われる部分となります。インプットが正しくないとアウトプットも正しく出ない、それが現在のコンピュータの限界という事になります。(現在ではAIが大分賢くなっているので是正してくれますけどね)

そういう意味ではビッグデータTwitter微分論と同じで微分した結果により近くなったのかもしれません。

では、目的を明確にしてそのデータの存在の意味を理解させ続けるような仕組みが出来たらどうなるのか、そこから自己判別して成長する様になるのかというのが永遠のAI論に近いのではないかと思います。if文を書けば良い訳では無いという事です。

話はそれましたが、とはいえ人の記憶というのは曖昧で不安定です。もちろんそこに特化した場合は恐ろしく凄まじい記憶力がでるものですが、そうでない場合が大半です。だからこそ、不安定さを補う仕組みがあるだけで人はもう一歩だけ進めるのではないでしょうか。

そんな仕組みを考えています。

#こんな事書いて突っ込まれないかとびくびくしてます(笑)