映画という総合芸術

本日は”永遠の0”を見に行ってきました。

映画館全体が言語化出来ない感覚に包まれ、悲しみでもなく喜びでもなくただただ感動し涙を流していました。当然私も、です。

もちろん、我々世代が沢山いた映画館でしたが、戦争を体験していないのにも関わらず、意識を共有しているというこの感覚と、作品に込められた、戦争というイベントを乗り越えて歴史として存在する出来事だけではなく、そこで活動してた一人一人、それを支えた一人一人が持つ物語は、この映画の様に、その当時を生き延びた人なら誰しもが持つものである所に納得感があった人たちは多かったのではないでしょうか。私も、既に亡くなってはいますが祖父と祖母から当時の話を聞いたり、話を聞いていた父親から伝えられた部分を持っています。聞いていた話とリンクする部分も多く、当時としてはかなり当たり前だったというのはウソではない、そういう所が心に一つ一つのしかかって来たのでしょう。

そして、この体験は誰しもが持っているものだということであり、美化せず、語り継いでいく事が、生きた証そして、戦争を生き残った人たちがいたんだという証にもなる、そう私は感じました。

この作品は、夏八木勲さんの遺作の一つとなった訳ですが、登場人物としてではなく、本当に乗り越えて来たものとしての本心からセリフを躙り出していたのではないのか、そう感じました。

セリフの一つである、「私にも言語化出来ないなにかが・・・」というのがありましたが、この感覚が私には非常に心に刺さった部分として残ります。これまで散々、数値で表す事、言語化する事を強制されて来た部分があり、どうしても表現できないものというものは存在する訳でして、そこをあえて言わせているというところに、我々が失った部分というものが込められているのではないかと感じました。どうしても、出来る人程、物事を単純かしようという傾向が高く、概念的にはざっくりはあっていても、本質的には理解出来ていないという事が多く、実行してもうまく行かない事が多く見受けられます。コンテキスト文化だった日本ですが、コンテキストを無視して来た結果、表面的な部分だけで評価しがちです。しかし、実際はそんな訳は無く文脈の理解というのは本質的な、人と人との相互理解に繋がるはずです。結果的に経済活動も、学習活動も、ホビーも恋愛も、すべては”相互理解”のための行動であるのではないか、と私は思います。まさにこの作品の根底にある部分そのものであり、日本小説・映画の真骨頂では無いか、と思います。

この作品は元々小説を原作とした、最新のVFXとの融合と、再考の俳優陣、最高のスタッフ、そして関わった全ての方の努力の結晶という言い方をすると非常にありきたりの作品のように思えますが、実際にはこういった事は当然のごとくベースとして存在し、それを圧倒的に凌駕する作り込みが見えてきました。

神は常に細部に宿るということを体現していたと思います。

例えばCGの部分ですが、いわゆるハリウッド型の現実と虚構の境目が無いようなものにする事も出来たとは思います。実際にそういうシーンも多いです。しかし、あえて虚構のように見せている部分もあり、最初はどうしてかなと思ったのですが、それはシナリオの展開上当然とも言える理由でした。

また、最高の原作と最高の脚本の融合も見えており、ヒーローズ・ジャーニーから逆算して見ていくと、やはり文脈に沿った作り方をされていますし、テーマもぶれずにしっかりと残っております。この映画は体験の映画だと私は感じました。主人公は他者の体験を自分の体験とし乗り越えていき、そして、その体験は観覧者の体験へと繋いでいくそういう話だと思います。

このような作品を生み出すための、原初である作品を生み出せる人をより多く生み出す事が出来れば、もっと様々なユーザエクスペリエンスを与えていく事が出来るのではないか、その為の仕組みはどうすれば良いのか、もっともっと真剣に考えたいと思います。